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ある臨死体験者との対話②主体を神におくのか認識からでいくのか?

【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】

真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。

しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。

もちろん、すばらしくです。

具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。

ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!

 

Q.佐藤先生の言う、存在っていうのは光の存在?

 

A. そうです。動かざるもの。最初から最後まで普遍のもの。

すべての時間を超越し、空間を超越し、最初から人間の思念も超越し、何もない、最初からある世界です。

 

Q.自分は戻ろうと選択して戻ってきたんですけど、伝えていることが、皆さんにわかってもらっていないような印象を受けます。体感もしてもらっていないと。

 

A. わかってもらえなくて、いいんじゃないですか?体感をしてもらわなくても。

 

Q.私が喜びで生きれば、世界的に広がっていくというビジョンもあるのですが。

私だけが、これをわかっているのでいいんでしょうか?

 

A. あなたが見ている、ある一部の世界ですから。そのことが、皆がわからなくても、どちらでもいい世界。

何も最初から変わっていないと。

 

Q.どこか、変えようとしていたのかもしれないですね。

 

A. 主体をどちらにおくかですね。主体を、こちらからいくのか、

それとも存在を主体にするのか、認識を主体にするのか、存在を主体にするのか。

 

Q.私がもっと、存在を主体にすれば。

 

A. そういうことです。主体そのものを、前提と捉えたときに、認識が変わってくるわけ。

このものはこうだって、認識をすると、固定化してしまう。固定化して、そこから変化がなくなる。

固定化しない、存在そのものを認めたときに、固定化したものが、無限に変化する。

これをアセンションと言ったり、認識と言ったりするじゃない。