部分的に見えてはいるが、実は究極の全体であり、神であり、宇宙?
【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】
真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。
しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。
『存在そのものの世界を現代に活かす』
そのことの証明を、6月13日㈯光が丘にて、佐藤康行本人と実証者が現します。
会場にて、お待ちしております。
Q.在の在るという感覚は?
A.あの、例えば、それを命でもし解説するとしたら、
命っていうのは、私たちのこの命じゃないです。宇宙をそのものを命としたら。
でも、宇宙の命は、先ほど言った、縁起によって現れて、
これとこれがあったときに、太陽と、水と、肥料があって、この花が咲く。
その種があって。という縁起によって、組合せによって、そういう風に見える。
でも、最初から命として同じなわけ。チューリップもバラも命も全部、すべての命が同じなわけ。
たまたま、組合せが変わると、違うものが現われてくる、ということなんです。
Q.私たちの中にある真我を宇宙の命と捉えるという解釈でいいですか?
A.宇宙の命と捉えたほうが、すべてがわかってくる。
あとは、全部、部分なんですから。因果の法則は、全部、部分ですから。
その部分で捉えると。どの時点からどの時点まで。全部、部分でしょ。
時間的も部分だし、空間的も、自分の見えている空間とか。
全部、部分なんです。私がいうのは究極の全体。
究極の全体が、神であり、宇宙であり。
Q.では、宇宙意識、エネルギーという表現も、表現している人が捉えている世界?
A.そうね。その人がそうつけているだけ。
Q.宇宙の命なんだっていうことですかね。
A.そうね。