全体から観るとまったく違う認識に?さかのぼると無限の決定がある?
【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】
真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。
しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
A.エレベーターの最上階より上に行けば、最上階も、その下は観れるわけ。
Q.なるほど。講座などで、普段自分が思いもよらない認識が出てくるのは、そのときの極致の認識なのでしょうか。
A.そうね。
Q.極致の認識を越えたところから観なければ、極致の認識がわからないというのは、初めて出てきたと思います。
A.そういうことです。
Q.弟も決定していたというのが、以前より気が楽なんですが。
A.それでいいじゃないですか。全部決定しているんです。
ひな鳥が卵から出ようとするときに突っつく。親も卵を突っつく。
お互い自由意思でやっているわけ。でも、真の真理からの自由は、そういう部分じゃないわけ。
そこにオオカミが来て、卵を食べちゃったら、親鳥も食べちゃったら、それも全体から観ると自由なわけ。
すべての自由の中で生かされているわけ。それが、部分の心理の自由と、真理の自由の違いなんです。
オオカミが現れる環境を人間がつくったかもしれない。オオカミがその前にのたれ死んでいるかもしれない。
あらゆる条件がそろっているわけです。すべての条件が。そういう部分じゃない。全部の条件があるわけ。
そこに大雨が降ったら変わっていたかもしれないし、台風が来たら変わっていたかもしれない。
Q.全体が、そうなる状況になっていたと。
A.決まっているわけです。
Q.決まっているんですね。
お父さんとお母さんが決定したようでいて、決定していない。
A.決定していないわけ。お父さんにもお母さんがいて。それぞれの決定があるわけ。
精子も卵子も決定があるわけ。それぞれあるわけ。
さかのぼっていくと、すべての無限の決定があるわけ。