神を前提におくとは、自分をなくすこと?宇宙の営みは消えていく姿?
【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】
真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。
しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
Q.極致の認識と実相の違いを明確にしていったとき、より実相が際立つのではないかと。
A. 私が前提と置くのはね、自分をなくすということなんです。
仮定とか想定というのは、自分の中から出てきた仮定であり、想定でしょ。だから全然違うんですよ。
Q.前提の説明もあったほうがいいですね。
A. あったほうがいいね。仮定、想定、前提、全部違うと。
Q.先ほどの仮定の話の続きで、私という現象が、常に私でない他のものたちによって外から規定されつつ、
現在の私とは違った私、私ではない私になりつつあると。佐藤康行に置き換えると、佐藤康行という存在がある。
外から佐藤康行を観る目が変わり、現在の佐藤康行とは違った佐藤康行になりつつある?
A. 佐藤康行の中の、真我である実相の自分と佐藤康行の捉え方の、認識の極致があると。
それによって、ものの捉え方が違う。私の最高の認識で見るのか、それとも私の真我で捉えるのかによって、違うわけ。
そして、認識そのものも変化してくる。これも極致といっても、そこも無限かもしれない。
その極致が変わってくる可能性があるわけ。
Q.極致の認識は必要なのでしょうか?
A. 三層構造を横に並べたときに、真我と書いたところを実相だと思えばいい。
そして、私というふうに思っている私は、この潜在意識と顕在意識でなっている。
そして相手側にもそういう捉え方あるわけ。相手も潜在意識と顕在意識でこちらを見ているわけ。
それは色んな人類の分だけあるわけ。しかし、実相である真我を自覚して見たときに、
その前にある、人はどう捉えるかが消えるわけ。消えちゃうわけ。
消えて実相対実相になって、真我対真我になって、神対神になって、前にあるものは消えるわけ。
そうなったときに、すべての営みがわかるわけ。消えていく姿がわかるわけ。
それは、私たちのすべての営みが消えていく姿なわけ。その消えていく姿がわかるわけ。
そうしたら、営みすべてが、何か消すために、一生懸命頑張っているわけ。
Q.消すために一生懸命頑張っているんですか?
A. 例えば、飢えを消すためにエサを一生懸命とりに行くとか。
片一方では満たそうとして、片一方では消そうとしているわけ。
満たすことによって、空腹感が消えるじゃないですか。そういう作業だと思ったらいい。