ある聖者との対話⑦ 佐藤康行の役割は無限の極致までの追究?
【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】
真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。
しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
Q.では、佐藤さんの役割としては、黄金の存在は、その人自身なんだと伝えることですか?
A. どうしなさい、こうしなさいはないわけです。何もしない人も何もしないという役割なんです。
何かの仕事をやっているいうのも、役割かもしれない。
私は、それを雨後たけのこに置き換えてやっている。
雨後たけのこの芽が、出なくても、いいわけです。出たら出たで、いいわけです。
それに沿わしてやろうと。それでやっているんです。そっから、私はどうしたらいいんですかって。
どうしたらいいって、誰も言えないし、言っちゃいけないことなんです。
Q.佐藤さん自身も、これをやりたいという目標は一切なく、真我で押し通していったときに、
どんな景色が観えるかだけなんだというお話もありました。
一言で、佐藤康行の役割といったら、どうおっしゃいますか?
A. 一言でいうとしたら、自分自身の極致までの追究でしょう。
どこまで自分の覚醒ができるか。でしょうね。
Q.もう、一回、極致いかれているでしょ。
A. いきましたけど、終わりじゃない。
Q.終わりじゃない?
A. 今が常に始まりです。なぜならば、相手は本当の意味での無限だから。
だから、そこに対して、ここと場所を特定するものじゃないし、ここまでという、ここでお仕舞いということでもないわけです。
それは、自分の思う一つのラインであって、そういうラインはないわけです。
Q.佐藤さんも、いってきた先にも何かあると捉えているわけですね。
A. まだ、先があるというよりもこれから面白くなると。
Q.これから面白くなるは、極致までいかれて、それを現していくことを言っていますか?そうじゃない?
A. 現すという作業的なものもいらないでしょう。
Q.自分自身の極致を追究していく?
A. 目覚めればいい。
Q.自分自身の極致の目覚めですか?
A. 本当の自分の目覚めだね。
Q.まだ、きていらっしゃらないですか?本当の目覚めは?
A. きてるのは、最初からきてるけど、何て表現したらいいか。その現れを観るというか。
Q.いいですね、これから観れてね。でも、一度、全部手の平にのせられた感じだったということで、
自分の極致まではいかれたという前提でいくと、佐藤さんが再度、極致のところにいくというよりは、現れを観るほうが中心なんですか?
A. ある一点だけを追究すればいい。あとは、現れや変化はそのままにしておく。
仏教で言うなら、自然法爾。自然に法に従って、定位置につくと。
Q.その一点に、お話を聞いていると深さがあるような印象をもったんですが。
今言われた一点は、同じ場所ですか?
A. 常にどこまでっていうのは、無い世界だから。私は無限という、久遠という前提なわけ。
ここで、前と比べて、どうだというのはないわけ。前は関係ないわけです。常に今だけなんです。
常に今であり、明日も今なんです。常にいつも新鮮であって、前と比べたり、何かと比べたりする世界ではないわけ。
Q.今話していて、自分がいったところを、固定化して究極だと思っていたことに気づきました。
A. それが、まさに固定化していた。
Q.あれだけ素晴らしいものを観ても、あれより先があるかもしれないね。
A. 私は、無限にあると捉えているし、そんなものじゃないと。
どんな究極でもそんなものじゃないという大前提。
Q.大前提でおいたほうが、楽しいですね。
A. 全然楽しいです。
Q.それは楽しみですね。