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「今はない」では何が存在するかで、すべてを超越することができる?

【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】

真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。

しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。

もちろん、すばらしくです。

具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。

ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!

 

Q.佐藤康行の言っていることと同じか教えてください。世界中のいたるところで、信仰によって驚くべきことが起こっている。

信仰を媒介とし、不治の病が癒されていく。次のことを私は忘れない。己は無なり。やっているのは、内なる神の霊なり。

この大生命が、癒す者の中にも、癒される者の中にもある。このことは、決まり文句であってはならない。

それは、時間を超え、もろもろの観念を超え、心を超えた生ける体験でなければならない。

なぜならば、心の中にあるものは、この大生命の一個の思想、考え方であるが、一つの信仰でしかないのであって、それ自体は大生命それ自体ではない。

神という言葉は、神そのものではない。神について、心の中で作り上げているものは、神そのものではないのである。

真実を隠す諸々のことは、虚しさがわかったとき、初めて真実なるものが顕れる。

過ぎ去った瞬間を取り戻そうとしても無駄である。過ぎ去った瞬間は、生ける今ではないからである。

 

A. 今の話は、まるで私が言っているみたいたったね。途中から。

 

Q.今とは生々しく、みずみずしく生きていることであり、それは久遠なるものである。人はそれをイメージすることはできない。

なぜなら、人はそれが何者たるかを知らないからである。人はただ、それが実在するのを知るだけである。

それの再来を想像するのは、明日の再来を描くようなものである。明日は常に明日である。

なろうとすることは、常に実存するものを他所に探し求めることである。私が、実相そのものにいきたいとかいうのは、他所に探し求めていることなんだと。

ゆえに、それを身をもうて実現しうるはずがない。それはそれを生きることによって、体験しうるのである。

これが、佐藤康行がいう、真我の実践、徹底真我というところかなと理解しているんですが。

常に実存しているものの中にあって、瞬間、瞬間を生き切り、仁愛(=実在)を実際に顕すことによって、瞬間、瞬間それを体験することである。

その瞬間には、もはや、正もなく、邪もなく、過去なく、未来なく、只、久遠の今があるのみである。父と吾は一つなり。

ゆえに、その中間の障害である我は溶けて去らねばならぬ。そして、はじめて、真実なるものが実現するのである。

吾は生命なり、生命は愛なり、愛こそ実在なり。隣人を己のごとくに愛するには、隣人の中にある、己の真我を愛しなければならない。

実在には自他の分離はないからである。

 

A. 私は、今まで、それを言葉で説明しないで、体感させていたわけです。それにずーとこだわってきたわけです。

でも、今回は言葉で顕わしていかなければならない、ということでね。今までは、普通、過去・現在・未来にわけるでしょ。

「今はない」と。ほとんどの人は「今しかない」と言っているでしょ。私は、今そのものはないんだというところから出発しているんです。

「今」の「い」を何億分切っても今じゃないわけ。だから、今というものはないわけ。当然、過去も未来もないわけ。今もない。

じゃ、何が存在するのかということなんです。そこのところの観点をやっていったときに、言葉だけで、トラウマを消していける可能性がある。

トラウマっていうのは過去の記憶なわけです。仏教でいう、因縁も業もカルマも、全部記憶なわけです。その記憶を「今もある」と思い込んでいるわけです。

その思い込んでいる部分、それが人間を苦しめているということなんです。あの人はこんな人だと。昔を今にもってきているわけです。

そこのところの、今はないんだという、「ない」を掘り下げていったときに、「今もない」と。そこで、何かを飛ばしてしまうことができるんじゃないかなと。