日別アーカイブ: 2015年8月3日

極致の認識と実相そのものの違い?

【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】

真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。

しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。

もちろん、すばらしくです。

具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。

ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!

 

Q.前回までは、切っ先の先自体が、実相の実相というか、実相そのものの先というか、一点というお話で・・・。

 

A. 正しくいうなら、実相じゃなくて、その切っ先から捉えているから実は認識なわけ。

 

Q.そうですか。切っ先から捉えても…あっ、そうなんですか

 

A. だって、あくまでもこの眼でみて、この切っ先から捉えて、より広く全体が見えるっていうだけです。

それは認識じゃないですか。眼を通して見れば。それは実相ではないわけ。

 

Q.向こうから観て実相の方から観て、営みの方を見るという風にお話されたときに、

本当の実相そのもの、佐藤康行が言っている全知全能とか、存在そのものと極致の認識の違いは?

 

A. 例えば、方便が必要ですけどね。その切っ先から見て、ずーっと、周りを社会を見渡したときに、あそこから煙りでているよって、

そこに切っ先に行かないと見えない距離なわけ。あそこをちょっとね、今だったら、携帯電話で、近くの人に電話して、

その辺から煙りでているけど、ちょっと気をつけた方がいいよっていったら、そうですかってみたら、確かに燃えてた。

それは山から見ないと見えない世界なわけ。より全体から捉える、で、そっちの人にも指示できるし、後ろ向いて反対の人、向こうの人にも指示できる。

これは下の方にいた人ではできないわけ。

 

Q.そうですね。

 

A. 切っ先だと、円周に全体像が見えるわけ。