全部実相だと捉えられるのは、認識の中の極致?
【 佐藤康行との対話ブログを読むときの注意点です 】
真理、実相は具体的ではないので、抽象的なこと、わからないことをやっています。
しかし、毎日読んでいると、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
具体的なことは、営業やお金、クリニックの本で、電子書籍もいれると150冊著しています。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
Q.切っ先の先は、私には、どうしても実相の世界があって、極致の認識があって、
その間のところの五感の認識のところが私には見え隠れしちゃうんですね。
佐藤康行はあまり高さも関係ないよっと。
全体を見渡せるというと、どうしても高いところから観ていると思ってしまうんですけど。
A. 高いというかね。全体を観れたときに、例えば、コペルニクスが天動説じゃなくて、地動説を唱えて、地球が自転して回って公転しているということを、地にいながら気づいた。
宇宙飛行士は宇宙からみた時に確かに自転しながら公転していると。外にでて、天からみているわけ。でも、答えは同じなわけ。
だから、真理というのは天から観ようが地から観ようが変わらないということ。
コペルニクスが発見したのも、宇宙飛行士が宇宙から観て何かを感じるのも、真実そのものを観たのと、真実そのものを感じたのは、ある意味、真理だから変わらないわけ。
Q.切っ先の先は、実相のところと…。
A. 切っ先の先に立っている。その切っ先も自分も宇宙なんです。それも、全部実相なわけ。
だから、そういうふうに捉えれるのは、切っ先中の切っ先。
Q.でも、佐藤康行は、もうそこは捉えられているという前提だと思います。
A. そうね。
Q.それで、切っ先の先から観るというと、少し、しっくりこないんです。
A. 私もそれは必要ないと思っています。必要ないです。そこをわかりやすく…。これも方便なわけ。
観えている方便が、図になって出でくるんです。
それが切っ先であり、下を観たり、上を観たり、マンガのように図が書けるように説明しているんです。