日別アーカイブ: 2015年10月28日

佐藤康行には、神は究極の整っている姿が観えている?

【 佐藤康行 生の声  ありのまま そのまま 】

質問をぶつけることで、佐藤康行の生の声をお届けしています!

アンサーはすべて佐藤康行が答えています。

繰り返し読むことで、知らないうちに自分の認識が変化してきます。

もちろん、すばらしくです。

ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!

 

Q.私たちは宇宙そのものに生かされているのか、

宇宙の営みの中で生かされているのか。

 

A.もともとは、宇宙そのものによって生かされていて、営みがあると捉えています。

 

Q.人間側から見ると営みの中で生かされているように見える?

 

A.そうです。

 

Q.自分が意図しなくても、オートマチックに整うというのは、

自分の認識が外れていると思っていいですか?

 

A.そう。「 自然法爾。 」

 

Q.認識が外れることと、神という前提の、前提が外れることは一緒でしょうか?

認識は外れると、自我が壊れるのと、似ているのかなと。

 

A.そうね。神という前提といっているのは、

私にも神が見えないからそう言っている、

と説明したことがあるんだけど、

 

前提とおいて、揺るぎなくやっているということは、

 

「 実は観えているわけ。 」

 

観えるっていうのは、視覚で観えているわけじゃない。

心で観ているわけじゃない。

 

「 魂、真我で観ているわけ。 」

 

だから、「 わたしはずーと観えるわけ。 」

 

皆さんが思う見えるじゃないわけ。

「間違いなく、その確信があって、揺るぎなく捉えているのは観えているわけ。」

 

女性であると揺るぎなく見えている。それは実は観えているわけ。

 

Q.(驚)その観えるは、言葉で表すと確信でしょうか?

 

A.そうね。私が、なぜ前提をつけているかというと、再現するためです。

 

「 私には、前提という言葉はいらない。 」

本当はね。

私じゃなくてもできるために。

 

私以外に観える人いないでしょ。

観えないのに、観えたようにいうのは、嘘つきになってしまう。

 

そうなると、永遠に確信がもてないでしょ。

私以外の人に、ちゃんと再現してできるために、前提という言葉を使っている。

 

Q.あっ(驚)そういうことなんですね。

 

A.私には前提はいらないんです。観えるから。

 

佐藤康行には見えますか?と聞かれるけど、

皆の思う見えますか?で聞いていると思うから、見えませんと言っているけど、

 

それもいらないかなと捉えている。

 

なぜなら観えるから。

 

Q.確信という

 

A.確信以上の言葉だね。確信じゃないね。

 

魂で観えるというか。

 

真我で観えると言ったほうがいいね。

 

「 真我で観えるわけです。 」

 

Q.真我で観えるは、オートマチックに整った結果を観て?

 

A.真我で観ていったら、オートマチックに、勝手に整っていくわけ。

 

Q.オートマチックに整った結果を観てではなくて?

 

A.違う。全部、整っていることが観えている。

 

整うっていうのは、神だから。

 

「 神は究極の整っている姿。 」