佐藤康行には、神は究極の整っている姿が観えている?
【 佐藤康行 生の声 ありのまま そのまま 】
質問をぶつけることで、佐藤康行の生の声をお届けしています!
アンサーはすべて佐藤康行が答えています。
繰り返し読むことで、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
Q.私たちは宇宙そのものに生かされているのか、
宇宙の営みの中で生かされているのか。
A.もともとは、宇宙そのものによって生かされていて、営みがあると捉えています。
Q.人間側から見ると営みの中で生かされているように見える?
A.そうです。
Q.自分が意図しなくても、オートマチックに整うというのは、
自分の認識が外れていると思っていいですか?
A.そう。「 自然法爾。 」
Q.認識が外れることと、神という前提の、前提が外れることは一緒でしょうか?
認識は外れると、自我が壊れるのと、似ているのかなと。
A.そうね。神という前提といっているのは、
私にも神が見えないからそう言っている、
と説明したことがあるんだけど、
前提とおいて、揺るぎなくやっているということは、
「 実は観えているわけ。 」
観えるっていうのは、視覚で観えているわけじゃない。
心で観ているわけじゃない。
「 魂、真我で観ているわけ。 」
だから、「 わたしはずーと観えるわけ。 」
皆さんが思う見えるじゃないわけ。
「間違いなく、その確信があって、揺るぎなく捉えているのは観えているわけ。」
女性であると揺るぎなく見えている。それは実は観えているわけ。
Q.(驚)その観えるは、言葉で表すと確信でしょうか?
A.そうね。私が、なぜ前提をつけているかというと、再現するためです。
「 私には、前提という言葉はいらない。 」
本当はね。
私じゃなくてもできるために。
私以外に観える人いないでしょ。
観えないのに、観えたようにいうのは、嘘つきになってしまう。
そうなると、永遠に確信がもてないでしょ。
私以外の人に、ちゃんと再現してできるために、前提という言葉を使っている。
Q.あっ(驚)そういうことなんですね。
A.私には前提はいらないんです。観えるから。
佐藤康行には見えますか?と聞かれるけど、
皆の思う見えますか?で聞いていると思うから、見えませんと言っているけど、
それもいらないかなと捉えている。
なぜなら観えるから。
Q.確信という
A.確信以上の言葉だね。確信じゃないね。
魂で観えるというか。
真我で観えると言ったほうがいいね。
「 真我で観えるわけです。 」
Q.真我で観えるは、オートマチックに整った結果を観て?
A.真我で観ていったら、オートマチックに、勝手に整っていくわけ。
Q.オートマチックに整った結果を観てではなくて?
A.違う。全部、整っていることが観えている。
整うっていうのは、神だから。
「 神は究極の整っている姿。 」