生老病死、愛別離苦を超越したといっても段階の世界?
【 佐藤康行 生の声 ありのまま そのまま 】
質問をぶつけることで、佐藤康行の生の声をお届けしています!
アンサーはすべて佐藤康行が答えています。
繰り返し読むことで、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
ブログは毎日、朝(7時3分)・昼(12時37分)・夕方(17時37分)、3回UPしています!
Q.真我を追究するのに、すべて追い求めないとなると…。
A.何のためかってあるでしょ。
この世の中の、釈迦がいった、生老病死。
あれを解決したいじゃないですか。でしょ。
あれは、全部、偽我の世界なんです。
釈迦のいった、生老病死、愛別離苦。
あれをなんとかしようというのは、偽我を何とかしようとしている。
あれは、解決したでしょ。
生きる喜びを味わいたいね、老いるのを超越したいよね。
病気も、できたらないほうがいいね。
死も超越したいよね。
愛する人と別れることの悲しも、超越したいよね。
Q.はい。
A.だから、それでいいわけ。
Q.そのためには、真我なんだというのはわかるんですが。
アセンションも追い求めない、レベルを追い求めない、体感も追い求めないって伺うと、
このままでいいのかな、と思ってしまうのですが。
A.だから、生老病死、愛別離苦。完全にそれを超越して抜けたい。
それは、悪いことではないわけ。超越したいでしょ。
Q.もちろんです。でも、それは段階の世界なんでしょね。
A.そうです。いくら超越したといっても、段階の世界。そういうことです。
人間の脳の中で、脳そのものを、どこまでいっても作れないでしょ。
脳に近いようなロボットは作れるけど、脳そのものは作れないよね。
それと同じだと思ったらいい。
脳に近いものに近づくことはできるけど、
人間のもって生まれた脳そのものの、同じレベルはいかない。
百年後も、二百年後も。これからも。