自分も神、相手も神でも、その奥の大元まで指していない?
【 佐藤康行 生の声 ありのまま そのまま 】
質問をぶつけることで、佐藤康行の生の声をお届けしています!
アンサーはすべて佐藤康行が答えています。
繰り返し読むことで、知らないうちに自分の認識が変化してきます。
もちろん、すばらしくです。
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Q.人間すべてを神、といったときに、私を操っている人にまで指さしていないというお話がありました。
A.動かしている人じゃない。
Q.「もと」ですね。
A.操り人形そのものには意識はない。
人間を動かしている「もとのもと」があるでしょ。
心臓を動かされている、橘さんを指さしているけど、その奥の大もとまで指さしていないと。
Q.それでは、神霊体と言ったときに、神体の部分だけ真我ですか?
A.それでいいです。
Q.でも、霊体も神の顕れとしたら、真我なのかなと。
A.そうね。ひとつの顕れというか。
顕れは、五感、六感で捉えた世界のことをいっている。
顕れだから。
顕れているから、三日月なんです。
肉体も全部、三日月なんです。
ある一部が顕れているだけなの。
三日月ないんだから、相対そのものがない。
例えば、三日月が湖面に映っているとしたら、湖面にも、三日月に映るわけ。
そうすると、こちらの三日月とこちらの三日月って相対になるわけ。
でも、それはないわけ。
空にある三日月と、湖面に映る三日月と、それを見ている自分の三日月とあるわけ。
それはどこまでいっても相対の世界なの。
満月になったときに、湖面にも満月映るし、自分の目にも満月が映るわけです。
その瞬間に、もう三日月はないわけです。
どの三日月もなくなるわけ。
空にある三日月はないし、湖面に映る三日月もないし、自分の脳で捉える三日月もないわけ。
Q.それは、実相から観たらですよね?
A.実相から観たらというより、実相という存在が顕れたとき。
三日月を認識と捉えたとしたら、それは消えるわけ。
神から観たっていうのは、満月から観たら、三日月は消える。